奄美諸島道の島・その歴史は、日本の歴史に大きな影響。

朝廷時代末期まで

朝廷時代末期まで

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43 ローマ、ブリタニア(イギリス)を征服 ロンドン港建設
45 ローマで商船船主組合設立
57 日本の九州北部 後漢、高句麗と交流
79 ローマのポンペイ火山灰に埋まる
97 後漢の時代 ローマへ使者を遣わすが陸のシルクロードの果てに断念
166 ローマ皇帝マルクス・アントニウス使者を遣わし後漢の桓帝へ象牙、犀角等を献ず

「始めて一通せり」海のシルクロード

メコン川近く国際貿易港オケオ発展

東漢時代、船に舵を用いる 西洋より1000年早い

220 赤壁の戦いには、多くの軍船が使用されている。

大河と海に 接する呉の水軍は強かったという。

日本においては、古代から中世までは大木も多く、くり舟の延長の船であったと考えられている。また、国内交易のみで 大型化の必要がなかった。

272 日本大型のくり舟「枯野」(からぬ)を造る

この頃 邪馬台国
3世紀後半 朝鮮半島と通行が活発になる

300 日本、使節を呉に送り縫工女を求める   
310 来日
369 神功皇后三韓征伐 倭軍 朝鮮半島へ出兵 
375 ゲルマン民族大移動 

地球的気候変動,寒冷化の影響朝鮮半島からの南下があったか

朝鮮半島南部と西日本が(九州の一部を除く)倭国

391 倭軍 百済、新羅を破る 

新羅、百済帰服 任那日本府設立応神天皇の時代、百済より秦の始皇帝の末裔と称する秦氏が120県の百姓を率いて渡来したと日本書紀に記されている。

山背国を本拠地とし、筑前、豊前、伊予、讃岐、備中、備前、美作、播磨、越前、越中、伊勢,尾張、美濃に広がりその人口は、古代豪族中最大、水田開発、養蚕など殖産興業で財力も絶大であった。

聖徳太子を支えたといわれるが仏教のみならず神祀信仰にも縁が深い松尾大社、伏見稲荷大社、宇佐八幡宮も秦氏の創祀

404 倭軍 帯方郡に出兵高句麗軍と戦う
427 高句麗 平壌に遷都

この頃 新羅より日本へ船匠派遣 造船技術の導入

5世紀 豪族を支配する体制 氏姓制度 

臣、君など「氏」は同族の組織、「姓」は地位を表す 民は彼らに支配された。私地私民的支配  農奴 ヤンチュの原型か?

白河関、菊多関造られる 蝦夷対策、東北支配策 蝦夷との戦いは、神武紀に書かれている

この地の先住民族が、蝦夷であることを意味する。南方は、隼人族

南海貿易は、5世紀までは中国からは金、銀、絹織物が輸出され、南アジア、西アジアなどからの宝石、工芸品などが輸入されていた。

5世紀に中国国内で金、銀が不足するようになると、中国は一転して東南アジア、南アジアから金、銀を輸入し始めた。

中国から輸出されたのは、はじめは絹織物が最も重要であった

6世紀の初め 倭王「武」の頃 遺跡の出土品からその勢力範囲が

東 埼玉  西 熊本  北 朝鮮半島と考えられている

527 磐井の乱 北九州豪族「磐井」が新羅と連携し反乱をおこす

538 仏教伝来

581 隋の建国
587 蘇我氏、物部氏を滅ぼす 仏教の推進

国家鎮護のため国分寺の建造に多くの国家予算が投じられた 

写経所の経営のために天皇家、皇族、貴族が財を費やした

その漢字は、中国・呉の発音が百済経由で入った 呉音

589 隋中国統一

6、7世紀頃 インドにおいてサトウキビから砂糖を作る技術

の発明され交易品として、地中海諸国、南洋、中国地方に積み出された。13世紀頃 中国、ペルシャなどに伝わったとされる

593 聖徳太子 摂政となる

600 遣隋使  朝鮮半島経由に使われた船については、不明
605 隋の煬帝 大運河の工事着工 610頃完成 総延長2000キロ

およそ杭州〜北京まで 黄河を遡れば洛陽、長安までいける舟による輸送を重視

607 遣隋使  小野妹子

陰陽道伝わる 神秘性のみ広まり、占い、呪術はやる

人々は土俗信仰と交じり迷信に怯え遷都の一因にもなった 迷信は、明治に禁じられる

618 隋 滅び 唐 起こる
630 遣唐使     630 〜 669  北路

日本の朝廷は、都長安の発音を学ぶよう奨励した 漢音正音とも呼ばれた

遣唐使船 通常4隻編成で、一隻に100人程度乗船したとされる。

唐文化摂取の意欲、国力誇示の競争心が大人数、船の大型化を招いたと考えられている。

当時としては巨大な船である。すでに外洋航海船の発達していた唐や新羅の船は60人乗りくらいの中型船であり、材質、強度、操船の面からこれ位が適した大きさと考えられ、従って遣唐使船は、北路の場合はまだしも南路等の外洋航海には不向きである。

当初は浅瀬にも適した平底船で横波に弱く、航海技術も未熟で風任せといえるものであった。一隻でもたどり着ければいいという考え方で4隻編成にしたという。

遣唐使船は純粋の国産の設計製造の船かは別にして、長さ30m幅 8m排水トン300t積荷トン150t程度と見られている

639 舒明天皇 百済大寺の建立を始める。

神道の中心たる天皇が始めて積極的に仏教の寺を建立させる。

その名も百済であり、いかに結びつきが強かったかを示す。

642 日本国内諸国に命じ大船の建造を進める

645 大化の改新  戸籍を作らせる
646 公地公民

大化元年、孝徳天皇は、新たな施政方針を改新の勅「従前の天皇等が立てた子代の民と各地の屯倉、そして臣・連・伴造・国造・村首の所有する部曲の民と各地の田荘は、これを廃止する。」と定めた。

大化以前は、天皇や豪族らは各自で私的に土地・人民を所有・支配していた。天皇・王族は、私的所有地あるいは、経営地である屯倉と私的支配民である名代・子代などを保有し、豪族らは、私的所有地である田荘と私的支配民である部曲を保有していた。

ところが、改新の詔第1条は、こうした私的所有・支配を禁止し、全ての土地・人民は天皇(公)が所有・支配する体制の確立、すなわち私地私民制から公地公民制への転換を宣言するものである。

公地公民の原則に従って、朝廷は、人民ヘ口分田を与え、租税を納める義務を課した。

この原則は、701年に制定された大宝律令にも継承され、律令制の根幹原則となった。

奈良時代に入ると三世一身法や墾田永代私財法により、人民による土地の私有が認められると、土地の公有という公地公民の原則が次第に形骸化していった。そして、土地私有によって荘園が盛行すると公地公民制は崩壊し、公地公民を原則とする律令制も瓦解への道をたどった。

650 サラセン帝国、唐と通商開始

イスラム商人中国沿岸に居留地を築き交易を活発化する

655 蝦夷、隼人内属

656 トカラ人来朝

660 百済、唐・新羅軍に破れ、日本に救いを求める

中大兄皇子 水時計を作る

663 白村江の戦 日本、唐軍に敗れる。朝鮮半島の利権を放棄

日本の海洋活動衰退
664 西国に防人をおく 

朝鮮半島の亡命勢力と共に北九州、瀬戸内各地に城を築く

667 天智天皇へ今の新潟より、「燃える水」が献上される

672 壬申の乱 天武天皇 武力統一、中央集権国家 天皇は神である

675 占星台設置

683 天武天皇 諸国の境界を定める

684 天武天皇 

伊勢王(イセノオオキミ)、判官、録使、工匠者等を地方に派遣  

8色の姓制定
685 伊勢神宮 式年遷宮はじまる

692 大隈、阿多に僧を派遣 仏教を伝える  

東九州が重要視されていた

694 持統天皇 藤原京
695  種子島に使者

7世紀以降は、ペルシヤの交通路をイスラム商人が継承し、絹を求めて大挙して中国を訪ている。広州などに居留地(中継拠点)を築いている。
  
ダウ船 マストは前方に傾斜していて、大きな三角帆が一枚ずつ張られる。
基本的に比較的小型の船で、船員も10人〜30人ほどだが、ペルシヤ湾から中国に向かうダウ船には、全長30m以上400〜500人乗りという大型のものもあったという

7~8世紀南インドにセブンパゴタ伝説 パッラバ朝
海岸線に巨大な仏塔建造物 灯台のような目印であり盛んな交易港を築いたと考えられている

8世紀には、ノルマン人がバイキング船で大西洋を横断している。  

バイキング船は最長50mもあり、1枚の四角い横帆を備え、片舷に60人の漕ぎ手を配し時に1日に約280km進んだという。

より幅の広いクナーと呼ばれる交易用の船によって足を伸ばし、アイスランドやグリーンランドまで殖民している。

698  南西諸島に武器を携帯したベツ国使(クニマギノツカイ)を派遣
699 たね、やく、あまみ、とかん等 南島人来朝

701 大宝律令 戸籍制度、地方制度
702 遣唐使  702 〜 752  南島路 奄美・津代〜ニンポウか 

ニンポウ

秦の時代から栄え唐の時代に今日の基礎が固まった。宋代には慶元府,元代には慶元路,明・清代に入って寧波府の治所となった。

古来,貿易港として知られ,宋代に入ると南海貿易も行われ,市舶司が置かれた。
わが国からも,唐代の遣唐使船を初めとして,明代の勘合貿易の船など多くの船が入港しており日中交流史の上にも重要な港である。

そのために倭寇が猛威を振るった時代には攻撃目標となり,防衛基地ともなった。

清末
1840年のアヘン戦争によって

イギリス海軍に占領され,南京条約によって開港したが,上海の発展に伴って衰退していった。

714 あまみ、しがき、くみ等の南島人来朝

種子島に公印が与えられる 正式行政単位となる

隼人対策、南島人の朝貢、遣唐使船の航路対策
715 再び南島人来朝し朝貢、位を授けられる

およそ1300年続く家系があるはず  支配体制上薩摩が封印した可能性?

718 養老律令

南九州の国司に辺境守備も兼任を命ず

720 日本書紀の完成 

隼人の反乱 

南島人232人、位を授けられる大伴旅人、隼人を討つ  

隼人の浜下りのはじめ

722 唐、日本へ『飛船』贈る。造船技術の導入

723 三世一身法

727 南島人132人位を授けられる  

これを境に南島の交易、朝貢は大宰府に委ねられたとされる。

可能性としてこれを期に東シナ海航路が主流になるのではないか

それ以前は、喜界島から四国を経て大和に行くルートがあり異人が直接都に来ることを避けて、遠い大宰府にまとめて管轄させたと考えられないか

また、船が大型化するにつれリーフの発達した太平洋側を止めたのではないか

船が小型の時代、太古より海の幸が豊富なこのルートが主流とも考えられる。
    

神話に海の民が登場するためには、それ以前より海人の往来があったはずである。それは、近年まで島に残っていた、魚を追いかけて、四国・紀伊半島あたりまで行き来した海の道が古くから確立されていたことを意味するのではないか。

島の浜おれは、隼人の儀式だったか?

大伴氏が隼人を制圧したとき、多くの隼人を殺した。その後、その祟りと思われることがいろいろ起こったため、鎮魂の祭り「方擾重」が行われたと言う。

隼人は、薩摩を離れ奄美に来て津に城を築き守りを固め以降の敗北者は、南に逃れたのではないか、それに対抗して朝廷は、喜界島に拠点を築いたのではないか

渤海使、出羽に来る ついで京に入る 新羅との関係が悪化 している日本は渤海との交流を深める

733 種子島の長官以下1116人に本土同様の位階と氏が授けられる

4月 平群広成 遣唐使判官 難波津より長安へ出発
734 10月任務を終え蘇州を発ち帰国 

崑崙国へ流され賊に襲われたり病に倒れ、150人は4人となり長安経由で帰国した

崑崙・チャンパ国は唐とサラセン帝国の繁栄でその貿易の中継で栄えた
743 聖武天皇 全国的に造寺、造仏を命ず  

墾田永年私財法 公地公民法の崩壊

有力農民は、積極的に開墾し一定地域の支配に成功すると開発領主と呼ばれ中央の権力者にと力の収益権を寄進し保護を求めた。

権力者は、さらに荘園が集中 土地と民が権力者の私的支配

8世紀から15世紀の間、アラビア、ペルシアからシナへ交易船盛ん。

広東とホルムズ間 約一年で航海

イスラム帝国アッパーズ朝(AD750成立)で生産されたと見られる。イスラム陶器のつぼの破片が、平城京西大寺旧境内で発見されたつぼは、高さ50cm以上、底の直径12cmでイスラム商人が香料やナツメヤシのみをいれて運んだものとみられる。陶磁器は、重く海路で大量に運ばれることが多かった。

「荘園」が発生してくる 貴族や寺社がこの法によって開墾された現地に設けた別宅や倉庫とその管理区域である土地をいう

人口増や辺境防衛等の理由から食糧の増産が必要とされさらに造寺、造仏に貴族、寺社の協力が必要であったため三世一身法が制定されたがあまり効果を挙げず永年私財とした 

この土地と共に隷属している民も私財 ヤンチュの原型    

752 この時の遣唐使は、帰路に暴風に流されマレー半島に漂着し、

乗船者の大半が殺されたという この頃、南島路
       
758 鑑真 揚州の崇福寺から日本への5度目の航海へ出発 

揚子江を下り海へ出ると嵐にあい海南島まで流される

762 チグリス河畔に海運貿易都市バグダッド市建設
777 遣唐使 以降 838 まで南路
789 桓武天皇 東北地方攻略

バイキング、イギリスへ侵入

794 平安京

796 東海道を開く
801 坂上田村麻呂 蝦夷を平定 青森地方は未だ異国

804 最澄と空海 遣唐使として唐に入る

824 種子島を廃止 大隈国に編入

淳和天皇 天長元年『南海の中にあって、人も少なく、貢物も少ない、名有って実がない、損が多く益が少ない』と いことで、南島一帯は大宰府の管轄外になる。名目上、大隈国に編入される。事実上無所属。

日本は、南北朝の内乱の時代へ、そして、倭寇が横行し奄美一帯も害を受けた。琉球は、三山の戦国時代

この頃奄美に倭寇の基地ができたと考えられる。
844 バイキング、スペイン西海岸探検・アイスランド、グリーンランド遠征
862 瀬戸内海に海賊横行   この頃 唐の商人多数入国

日本の船大工にジャンク船が影響を与えたはずである

871 南島のヤコウガイ 大嘗祭のなますの容器に使われる
                           
9世紀末〜10世紀はじめ国司と荘園領主の対立や混乱する地方政治の中から

武装する地方豪族や開発領主が現れる 

地方に下った賜姓皇族や中・下級貴族を棟梁に武士団を形成する 

その代表格が桓武天皇系桓武平氏と清和天皇系清和源氏である

9世紀 三角の帆(ラティーン)を装備したダウ船が登場し、風の力だけで>あらゆる方向へいけるようになった。

この頃には中国でもジャンク船が登場する。

ジャンク船は、竜骨(キール)が無く平底で水密区画質を備え、竹のバテンで補強された帆は、帆走効率を向上させ強風下でもコントロールしやすくまた、一枚の帆全体を帆柱頂部から吊り下げることによって突風が近づいた時などに素早く帆を下ろしたり縮帆も可能にした。

さらに舵も取り付けられた。これらは、西洋より何世紀も早い。現在も利用される基本的な海事技術の発明の多くは中国人よるものと言われます。

河川や沿岸を航行する小型のものから、400総トン程度で耐波性に優れた大型の外洋航行用のものもある。

875       
〜884 華南に塩の密売人「黄巣」の乱 全国に広がる
                         

黄巣の乱でイスラム商人は大打撃を受け後退した。

これを機にイスラム商人に代わって唐商人が南海貿易を盛んに行う

南海の特産品を唐へ運び、唐の品を持って、九州一帯に入港した 

この頃、道の島の役割も発展したのではないか

唐や新羅の商船が自由活発に往来するようになったのは両国の統治体制が弱体化したからである。

国内においては、唐の商船が自由に往来するようになると経費のかかる外交使節を止めることになる。

880 カンボジア クメール王朝 アンコール=トムの建設

894 遣唐使の廃止

日本は外国から正式な外交を働きかけられるが僧侶以外の海外渡航を禁止した。

外国との交易は来航する交易商人との私貿易に委ねられた。

国際感覚は薄れ、国粋主義的風潮が生まれた。 

平和は、都の文化を花開かせ、都の外は文化的に落ちる、野蛮とされた

辺境の島々は鬼海島と捉えられた。

907 唐 滅亡 これより 五代十国 戦乱時代
939 平将門の乱 関東一円平定 「新皇」を名乗る

藤原純友 瀬戸内海の海賊を率いて反乱 大宰府焼き払う
947 疱瘡が流行

960 宋建国

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