奄美諸島道の島・その歴史は、日本の歴史に大きな影響。

道の島歴史考

道の島歴史考

伊達政宗の慶長遣欧使節団・1613年

この使節団が派遣される二年前に大津波があり、伊達政宗はその甚大な被害を徳川家康に報告。領国の再興に全力で立ち向かい、新田開発などを行って行きますが、何よりもまず石巻に交易目的の湊を造った。今年、使節団派遣400周年ということで記念事業が計画されているようです。まさしく東北大震災大津波の二年後です。この湊は、その後、徳川家康が大阪夏の陣で豊臣政権を完全に倒し全国を制した後、治安維持のためキリスト教を禁止したことによりスペインとの交易をあきらめざるを得なくなりますが、新田からの米や特産品の積み出しで大いに利用された。その後大いに栄えることになります。この度も力強く再興することを祈って止みません。
さて、その1613年を考察すると、
1600年の関が原の戦いの後すぐに全国の大船は大阪の海で焼却処分されますが、歴代政権同様海外交易の利を狙っている徳川幕府は、島津に琉球侵攻を認め1609年に奄美琉球侵攻。
つまり伊達政宗は、それまでの歴史である海外との交易の利権を握る西国大名、地の利を持つ有力者に対抗しうる交易拠点を石巻に創ろうとしたのである。特に財力で屈服させられた豊臣秀吉のその経済力の源泉を南蛮貿易にも見たはずである。
石巻からメキシコへ到達する大圏航路の発見は、既に知っていたがゆえ伊達正宗は、使節団の派遣、石巻を拠点港とする交易をスペイン国王に提案する書状を送るわけです。
1609年の薩摩の南進は、伊達政宗を焦らせたに違いない。
その構想力は、天下人に勝るとも劣る器ではないように思える。
ちなみにガレオン船は、スペインの国家機密のはずですが、宣教師ソテロの協力を得て、500t級の船をわずか45日で造らせたそうです。大工700人鍛冶600人雑役4000人といいます。さすがの徳川家康もまさかこれ程とは思わぬうちの出航だったのではないかと思う。
恐るべき宣教師の知識、南蛮の国力と考えその後の宣教師の追放の一因だったと推察するのである。
奄美琉球の1609年は、この使節団と考え合わせると時代背景がさらに解明されると思う。世界は、西欧の大航海時代なのである。

1565年、フィリピンとアカプルコ(メキシコ西海岸、当時スペイン植民地ヌエバ・エスパーニャの港)間に軍艦・大型商船のガレオン船の航路が開かれる。
1572年、アカプルコはマニラ貿易の専売権を獲得。積荷は、香辛料、大航海時代は、黄金並みの価値を持つ香辛料を求めて始まったが、この頃になると磁器や漆器、象牙、絹織物などになり特に中国の絹織物はヨーロッパで大人気となる。
アカプルコからの積荷は、南米大陸の銀である。別項大航海時代などに詳しく記載。
1821年のスペインからメキシコの独立まで続く。

1609年、フィリピン臨時総督ロドリゴは、マニラからアカプルコへの帰途、暴風雨で千葉県の御宿の田沢浜に座礁。乗組員の海人の必死の救助で317人が助かった。村民の手厚い保護の後、徳川家康と面会し、ウィリアム・アダムス(三浦按針)が建造したガレオン船を提供され、1610年アカプルコへ帰る。この船には、ヌエバ・エスパーニャとの交易を図る徳川家康の使者である商人たちも同乗した。

1611年、彼らは、スペイン国王の親書を携えた答礼使セバスチャン・ビスカイノと共に帰国。しかしこの船もビスカイノの滞在中に暴風雨で破損。
そこでその代替船の建造を申し出たのが仙台藩主伊達正宗であった。

西洋の大型(航洋)船建造

1600年4月29日(慶長5年3月16日)、リーフデ号は豊後の臼杵に漂着した。大坂城の豊臣秀頼に指示を仰いだ。この間にイエズス会の宣教師達が訪れ、オランダ人やイギリス人を即刻処刑するように要求している。結局、五大老首座の徳川家康が指示し、重体で身動きの取れない船長ヤコブ・クワッケルナックに代わり、アダムスとヤン=ヨーステン、メルキオールらを大坂に護送させ、併せて船も回航させた。5月12日(慶長5年3月30日)、家康は初めて彼らを引見する。イエズス会士の注進でリーフデ号を海賊船だと思い込んでいた家康だが、路程や航海の目的、オランダやイギリスなど新教国とポルトガル・スペインら旧教国との紛争を臆せず説明するアダムスとヤン=ヨーステンを気に入って誤解を解いた。しばらく乗組員達を投獄したものの、執拗に処刑を要求する宣教師らを黙殺した家康は、幾度かにわたって引見を繰り返したのちに釈放し、城地である江戸に招く。
三浦按針となり外国使節との対面や外交交渉に際して通訳を任せたり、助言を求めたりした。また、この時期に、幾何学や数学、航海術などの知識を家康以下の幕閣に授けたとも言われている。
やがて江戸湾に係留されていたリーフデ号が沈没すると、船大工としての経験を買われて、西洋式の帆船を建造することを要請され伊東に日本で初めての造船ドックを設けて80tの帆船を建造した。これが1604年(慶長9年)に完成すると、気をよくした家康は大型船の建造を指示、1607年には120tの船舶を完成させる(この船は1610年になって、房総の御宿海岸で遭難し地元民に救助された前フィリピン総督ロドリゴ・デ・ビベロに家康から貸し出され、サン・ブエナ・ベントゥーラ号と名付けられた)。ウィキペディア参照

赤木名グスク

先日、赤木名城について現地で学ぶ会がありまして、参加してまいりました。
要するに、琉球が栄える以前に奄美を中心に栄えた時代があったようです。中でもこの地は、重要な場所だったと考えられている。この湾の入り口の両岬の山頂、今井崎や蒲生崎にも山城跡が見つかってるそうで笠利湾は、いくつもの城が取り囲むようにして存在していたと言うことになる。つまり城の津である。津城である。赤木名城の頂上からは、太平洋の一部が見える。あの辺にも見張り台があって、狼煙で連絡が取れる様になっていたのではないか。すると、海底から中国との交易の途中と考えられる沈没船が見つかったもうひとつの重要な湊と考えられる焼内湾もまた、狼煙で繋がっていたかもしれない。つまり風によって、あるいは、北上・南下によって使い分けられていたとも考えられるのである。さらに、赤木名城の調査では、弥生時代まで遡る遺跡が見つかっている。この山すそには、今でも岩の間から湧き出る水がある。縄文海進でも利用できたはず。
ますます古代妄想は面白くなってきました。素人が集まった学会ができそうである。真実が分かるとがっかりしたりするのでこれを古代妄想ガッカイと呼ぶことにしよう。

大圏航路とスペインの接近 豊臣秀吉~伊達政宗の頃

1565 太平洋東進航路が発見された。これを大圏航路という。
 スペインのアンドレス・デ・ウルダネータは、フィリピンのマニラを出発、黒潮に乗って日本近海を北上。北緯40度あたりに吹く偏西風に乗り、東進、メキシコまでの20,000kmを130日で走破。こうして、スペイン、メキシコ、フィリピンを結ぶ往復の航路が完成した。時に中国は、銀の大消費国になっており、往路にメキシコ銀、復路に香辛料、それに加えて生糸、絹製品、陶磁器などが運ばれ大いに栄えアカプルコ交易と呼ばれた。
 ついでに言えば、このような下地があってアメリカへの移住者が当ても無く西へ、西へと開拓していったわけではなく、もちろん未開の地がそこにあったことにもよるが地の果てには、交易港も可能であるという新興国としての夢もあったかもしれない。
 すると、マニラは、ポルトガル全盛時に既に世界的規模だった日本の石見銀山を含め東西の交易の十字路となって世界有数の交易港となった。
1613.10.28徳川家康の許可を得て、伊達政宗は、今の宮城県石巻港からスペイン人の協力を得て建造させたガレオン船(スペインの国家機密)でスペインへ使節団を送る。
1614.1.28 アカプルコ入港、

10.5 大西洋横断の後スペイン南部到着
1618.4.2  アカプルコ出航

8.16 フィリピンのマニラ着
1620.9.20 道の島を通って(通ったはず)日本へ帰国

◎この頃に道の島は、世界的な道の島になっていたのではないか。

喜界島は、大圏航路の上の寄港地、あるいは前線基地として栄えなかったか、それゆえ大宰府の出先機関のように発展したのではないか、さらには、それ以前に南海貿易の中継基地としてある集団が大勢で移住してきたか、その場合東シナ海側の「津」もすでに重要な基地とだったはずである。そうすると平家伝説と符合して面白い。1523にニンポウで大内氏と細川氏が戦い大内氏が勝利し交易を独占する。その敗者の細川氏が別ルートを開拓してたりして?

集団移住は、聖徳太子の頃の大陸からの技術者集団の移住の例があり可能性はあると古代妄想している。

立神

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立神 海道に現れるこの名は、神話に出てくるものの変化と思われるが、海路の道標でありもしかしたら中国人船長や海人達の呼び名に後に天皇命の南下政策による命名か?日本にもジャンクや西洋船また和船の長所を取り入れた航洋船があったが鎖国で衰退したといわれる。何故伝承されなかったか、それは船乗りに中国人を雇っていたからということらしい。あるいはイトマン人などの一部の日本人も含まれるのではないか?

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薩摩・開門岳

道の島から北上し、鹿児島湾(錦江湾)に近ずくと開聞岳が見えます。これが、船乗りの目印だったことは疑いないと思う。しかも、大隈半島でなく、薩摩半島に古くからの湊があるということは、東シナ海側を北上したいための寄港地ということ。
京に直行するより、韓半島・大宰府が目的地ということであり、種子島の役割が後退したことと関係するのではないか。
山川港には、記録に残っているだけで千回近く琉球の使節団が来航している。一般貿易船の往来も多かった。西南の役の戦没者招魂塚は、琉球人墓を撤去して造られていることが判明。埋葬された人々は、500に上ると言う。

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