島の風習と日本国
島の風習と日本国
はじめに
下る文化が、全国の地方に行き着きわずかに変化して残っていることがある。
国の支配下になるとはそういうことである。
発信の中心地に近いほど素早く変化し、そのために連続性が無い場合もある。
遠隔地、地方においては、変化が遅い分すり合わせが起きるようである。
これまで祖先から受け継いできたものと、新しく中心地から下ってきたものを繋ぎ合わせたりする。
そうやって島の言葉を含め風習、慣習はできたと思う。
言葉については、たとえば大きな事業所になるとムラ言葉が生まれるように
島の地勢、地域性から生まれる集落の生業などからムラ言葉が必然的に生まれることもあったと思う。
そこでこの項では、歴史の学びと島の暮らしの変化に関することを捉えて行きたい。
例えば冠婚葬祭、人生の大きな節目行事なので変化も判り易いと考えている。いろんなことに目を向けて行きたい。
埋葬(文藝春秋「日本人の死生観」島田裕巳/本郷和人)参照
日本では、お葬式の後火葬にしてお墓に納める形が普通に思われていますが、昭和40~50年頃までは土葬も全国の田舎ではよく見られたようである。
世界的に観ると米国などのようにゾンビの現れる国は、土葬である。
また、風葬や鳥葬という地域もあるし、船上のように水葬もある。
島には、風葬跡が今も残っている。
もともと火葬は、仏教と共に日本に入ってきた。古墳時代から土葬なのである。庶民はどうかというと、先祖代々の墓が立てられるのは江戸元禄時代のようです。それまでは、亡くなった者を弔う風習は無かったようで、位の高いものでも死体を恐れ人を使い埋めさせていたというから、埋葬を見ていないということです。庶民は、姥捨て山のように捨て場所があったのでしょう。
飢饉や流行病などで多くの人が亡くなるとそこらじゅう死体で、後に適当な地に集めたようです。
ヨロン島においては、天然痘の大流行があり同様の伝承が残っています。
第2次大戦前まで島のあちらこちらで火の玉を見たという話は、その影響もあったかと思います。
死体の埋葬は、死体が病原菌の巣になることに気づいてからのようで、鎌倉時代中頃からのようです。
それから国の為政者の統治の仕方、宗教との関係で変化してきたようです。