奄美諸島道の島・その歴史は、日本の歴史に大きな影響。

平清盛と道の島

平清盛と道の島

「平清盛」「テンペスト」今テレビで奄美が交易で栄えた時代の歴史番組が放映されている。「テンペスト」は、琉球時代末期の話ですが、その背景として時の中国とのかかわりが述べられている。番組に合わせて出版されている歴史解説書にも交易中継地として奄美が図示されるなど興味深い。
平家に出世をもたらした富の源泉は、海外交易にあり、そのルートは、さらに遡る遣唐使船の南路であることが分かる。
 平家はその主要港である坊津・薩摩半島をも受領国にしている。
そこで壇ノ浦の合戦の後、敗軍の平氏の一部が奄美を目指したのも想像できます。平氏勢力にはもともと瀬戸内海の海賊だった者もいた。南島路の存在は知っていたはずで奄美に津城を築いたとしても不思議ではない。
唐は、北ベトナムも領土とし南海交易も手中に収めますが、末期には、イスラム商人が長江沿岸の海港に多数居留し、769年に広州に入港した西アジアの船は、4000隻といいます。宋になると既にイスラム商人から交易の担い手は、環東シナ海勢力になり、ダウ船からジャンク船へ変わります。ちなみに船の隔壁や船尾中央の舵、帆に竹を差して補強するバテン、羅針盤など中国の発明です。  
海のシルクロードは活発になり商業がおおいに発展しますが、後に北の勢力に押され、南宋になり陸のシルクロードを失うと共に韓半島と近い交易湊を失います。ゆえに海上交易にさらに力を入れることになり、南島路にも力を入れたはずです。経済的には、南宋になってさらに交易で栄えたといいます。その交易は、平家没落後の鎌倉時代も行われます。時代は、源平により武士のそして経済力の時代になったと言って良い。奄美が交易港として最も栄える時代背景です。この頃の徳之島の焼き物基地がどのような役割を果たしたか興味深い。
南宋から元になり国家的交易はしばらく衰退するが、平家が取り締まった海賊行為や私貿易が盛んになる。奄美が倭寇の基地だったといわれる背景です。
 南海諸国との交易が盛んになるとともに船の性能、航海術が進歩し徐々に奄美を拠点にしていた豪商たちは、沖縄島に拠点を移したと思われます。
この島は三山時代の戦国を経て琉球王国となりますが、北山王は、伊平屋島(伊是名島)から来て、南山王は久高島から来たとする伝説があり、平家が喜界島を経て奄美に来た伝説に似ていることと天岩戸伝説があることが興味深い。
 中国が明になり倭寇対策として海禁策をとり日本(室町時代)とは勘合貿易を行います。後に交易相手国を琉球中心として冊封体制の下、ハブ湊として那覇湊が栄える。こうして奄美から琉球へ交易の中心は完全に移ったと考えられます。以上資料を基に一部考察しました。

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