奄美諸島道の島・その歴史は、日本の歴史に大きな影響。

武家政治の時代

武家政治の時代

979 宋 中国を統一

980 宋商人来着 博多、敦賀に来航 私貿易の始まり

後に平忠盛は、独自にこれを活発にし、輸入品を朝廷にもたらし権力を持つようになる。

中国からは、絹織物、陶磁器が輸出される

日本からは、金、硫黄、日本刀が輸出される

この頃赤木名グスク
997 奄美人九州に襲来  300 〜400人をさらう

南蛮人、壱岐対馬を侵す
1020 同上

カムイヤキ「南島系陶質土器」 11 〜14世紀にかけて稼動したとされる。>その奴隷か

1032 富士山噴火
1083 富士山噴火

1096 十字軍の遠征開始  

兵士、軍馬、食料などの輸送が増大し船主に莫大な利益をもたらす。

船の発達

1112 アンコールワット
1115 中国・金が建国

1124 奥州藤原氏 平泉に中尊寺金色堂

1127 南栄 建国
1145 南島人、大宰府に漂着

1156 保元の乱 天皇方、平清盛の勝利 源為朝 流罪
   奄美、琉球各地に為朝伝説

1160 平清盛  日宋貿易  私貿易が盛んになる 南路をつかう

清盛も大いに力をいれ、音戸の瀬戸の開削 福原の港を造る

この頃には琉球各地にアジ(豪族)が誕生 石垣囲いのグスク

赤木名グスクも交易が盛ん

学説では、先島諸島と、沖縄諸島以北の交流は、グスク時代まで無かったと言う。

したがって先島諸島が日本語と同じ系統の言語になるのは、グスク時代以降ということになる。室町時代の言語といわれる。

グスク時代に北から多くの人が移住してきた。

それまでは、南方系の言語だっとされる。

7世紀に土器文化が始まり、八世紀に広まり、九世紀に終わったと考えられる。

十世紀頃まで狩猟採集の生活と考えられている。

1183.11.17 源平の「水島の合戦」(今の岡山県)の最中に日食。

天文学者を要する朝廷側の平家は、知っていた。

日食に混乱する木曾源氏に対し戦いを有利に進めた。

1185 壇ノ浦の戦い

頼朝は、平氏の重要拠点の大宰府掌握のため側近の天野氏を鎮西奉行に補任する

1187 頼朝は、姿をくらました義経追捕と平家残党掃討のため天野氏に

鬼界島討伐を命ず 境界が定かでない時代。今の喜界島を特定するものではない。

天野氏の部下は乗り気でなく執柄家の九条兼実は、境界もわからない島を攻略するのは煩わしく無益と猶予を命ず

源為朝の子義実は、義経に味方していたため喜界島逃亡の説有り  かけろま・実久、三次郎伝説

喜界島の後、大将平資盛は諸鈍、戸口に平行盛、有盛は浦上、今井を安木屋場崎、蒲生を屋仁崎 

薩摩侵攻後の伝承の変化との説あり

信房、南島の地図と海路図を献上して討伐を願った

喜界町城久遺跡群 山田半田遺跡 

発掘調査により9〜10世紀頃から展開11〜12世紀に最盛期とみられる。>特に他の島々で珍しい、越州窯系青磁、初期高麗青磁、朝鮮系 無釉陶器などがまとまって出土。

鹿児島県内においてセットで出土した事例はない。カムィヤキ壺やガラス球なども出土

1192 鎌倉幕府
1206 チンギス=ハーン即位
1226 肥前松浦党のもの高麗沿岸を侵す  倭寇のはじめか

この頃宋は、日本との貿易を禁ず 密貿易が盛んになる

赤木名グスク13 〜 14世紀は交易停滞期か 琉球はもとより奄美も別の地に倭寇の拠点があったため?

1241 北欧の自由都市は、主として海賊に対して商船を保護する

ためにハンザ同盟 全長30m程度の商船

1271 マルコ・ポーロ東方旅行出発
                  
1274 元寇  蒙古軍3万人、軍船900隻
1281 5月元寇 東路軍と別に江南軍約10万ニンポウより来襲 

7月台風で壊滅(神風の由来) 軍船4000隻その一部が奄美上陸か

福元盆地の石碑の文字?

 1302 羅針盤の発明
1317 ヴェネツアの商船イギリスに至る イタリアで初の海上保険契約
1333 鎌倉幕府滅亡

島津は足利尊氏の挙兵に呼応し鎮西探題攻撃に参加  建武政権 尊氏が建武政権に敵対するとこれに味方し九州におても南北朝動乱期となる

源為朝の子義実は、義経に味方していたため喜界島逃亡の説有り

1336 室町幕府
1370 〜 1380 倭寇の最盛期
   
1350 タイにアユタヤ朝が起こる        

日本人町できる  

傭兵、貿易商、キリシタンやその配偶者など1000 〜1500人程度
1368 元が滅び、明建国
1372 琉球の中国との公式な関係始まる
1392 李氏朝鮮建国

前期倭寇が猛威を振るっており李王朝は交易の利で倭寇の鎮静化を図る

九州探題、守護・国人のような大勢力には外交と公貿易を兼ねた通行を許可、それら通行使節を派遣する船は「使送船」と呼ばれた。胡椒、丹木、銅のような高価な物資を運んだ

倭寇 環東シナ海に猛威 ために明は、海禁政策 イスラム勢力の衰退

南海貿易は、5世紀に中国国内で金、銀が不足するようになると、中国は一転して東南アジア、南アジアから金、銀を輸入し始めた。

中国から輸出されたのは、はじめは絹織物が最も重要であったが10世紀以降はこれに陶磁器、銅銭が加わった。

東南アジア、南アジアでは中国産のこうした品物を入手するために、西アジア方面から輸入する金、銀を必要としたが、それだけでは十分でなく、モルッカ諸島産の香料、インド産の胡椒などの香料や綿織物なども必要とした。

南海貿易に従事する商人は、はじめ東南アジア各地やインドから中国に来航する商人であったが、7世紀頃からペルシャ人など西アジア商人の中国来
航が盛んとなった。

そして9世紀頃からは中国人商人が直接東南アジア、南アジアの各地に進出し、13世紀には西アジアへも進出した。

しかし1368年に明王朝がその建国とともに民間商人の海外渡航を禁止したことによって、南海貿易はマラッカ以西では南アジア、西アジア方面から来航する商人、マラッカ以東では東南アジア各地の商人、もしくはそれらの各地に住み着いた華僑商人がこれに従事した。

ジャンクによる海洋交易網は宋代以降発展し、天津、福建などを中核に、東シナ海、南シナ海、インド洋にまで張りめぐらされ、中国の経済発展に大いに貢献した。

また、日本においても唐船という名で建造されていた。

西欧においては14世紀の中ごろ船に大砲が積まれるようになる。大砲は、改良を重ね強力になり帆船の大型化、高性能化にあいまってさらなる未知に領域へ進むことになる。

一般庶民も交易のみなら自由に来航が許された。興利倭船と呼ばれた高価な物資は不可なので、塩、魚をもって米穀に替える明で倭寇を働き、略奪品を持って朝鮮に交易に訪れる者、防備の薄いところでは、隠し持った武器を取り倭寇に変ずる者ありで朝鮮は対応に苦慮

1392 室町3代将軍足利義満は、九州の南朝勢力を駆逐、対明交渉を開始

1399 義満は 応永の乱 

それまで独自に私貿易をしていた大内義弘を討つ 幕府で日明貿易を図る

博多商人の 肥富 献策この頃まで伝統航海術

1400 興利倭船の入港場所を釜山浦、鎮海に限定  徹底不可
1404 日明貿易(勘合貿易)    南路
1405 明の3代皇帝 永楽帝 鄭和の率いる大艦隊をインド洋に派遣
〜1433 七回の航海は、東南アジア、インド、アラビア半島、東フリカ全域記録によれば、第一次遠征の船隊62隻 27,800余人 船隊中最大の「寶船」と呼ばれた船は、全長150m、1500t 造船技術、航海術は世界で最も進んでいた。

結果、南国30余国が明へ朝貢 諸国に華僑の活躍の契機となる
1407 李氏朝鮮は交易に居住地領主の渡航証明書を義務化する

結果的に対馬以外の興利倭船は姿を消していく
1411 室町4代将軍義持は朝貢形式に不満を持ち、日明貿易を停止

6代将軍義教 貿易復活

1425 シャムへ琉球船派遣  琉球の東南アジア貿易始まる

1429 琉球王国建国

1454 ポルトガル、教皇よりインドへの航海独占権を認められる

同じ頃大航海時代を迎えようとしていたヨーロッパをリードしていたポルトガルの船

1444 バスコ・ダ・ガマ 

アフリカの西海岸のセネガル川の河口にたどり着く そこから
1488 喜望峰を回った
1498 インドに辿り着く ガマの最大の船で300tであった

1467 応仁の乱 戦国時代

日明貿易は官領家の細川氏、乱で兵庫を得た大内氏、博多や堺の有力商人が経営するようになる

大内氏兵庫港を奪取、敗軍の細川氏堺港を開く 

朝鮮と琉球への貿易     紀伊水道太平洋航路ができた? 喜界島?

タイのアユタヤ日本人町 

戦国時代には主君を失った浪人が流れてきて急激に膨張する
1479 スペイン王国誕生
1494 法王の勅 西経50度より西・スペイン、

東は、ポルトガルが統べての新発見に対する独占権を認める

トルデリシャス条約 スペイン、ポルトガルの植民地獲得競争が激しくなり、利害が対立したため、両国は、ローマ教皇に仲裁を仰ぎ、協定を結んだ。

西アフリカ沖に境界線を引き東西に分けて、それぞれに発見する土地を、西をスペイン領、東をポルトガル領とした。

すなわち、最も神に近いローマ教皇ですら世界を知らなかったわけである。

当時既に、自然の恵み豊かなインドや東南アジアでは、いくつもの王国があった。

いや、西欧諸国より豊かであった。それゆえに厳しい環境から世界を目指した、艦隊を造り上げた2国の武力に負けたと言えるのである。

その後はオランダとイギリスが勢いをつけ、日本へ近寄ってくるのである。

産業革命を最初に起こしたイギリスが太陽の沈まぬ国になって行く。

ロシアもまた、豊かな南の植民地を欲したであろうし、その為に不凍港は、どうしても必要だった。

植民地政策は、同時に奴隷の売買も行われた。日本人奴隷は、東南アジアの日本人町はもとより、マニラを経由して、メキシコやペルーに渡った者もいる。

ヨーロッパの富は、こうして世界中からかき集められたのである。

日本において海外貿易は、1401室町幕府三代目足利義満の明国との勘合貿易によって始まり、1639の鎖国と呼ばれる時代におわる。

1497 バスコ・ダ・ガマ リスボン出航 

アフリカ東岸の貿易を独占していたアラブ人を水先案内とした
1498 ガマ インド到達   最大の船で300t   

ポルトガル人とアラビア人インド貿易を争う
1502 ガマ 第二次航海   コロンブスが米到達

1505 ポルトガル大艦隊インド洋へ イスラム教徒と戦う
1509 ポルトガル、インド洋を制す

1510 朝鮮 三浦の乱 

宗氏と三浦に定住していた日本人の蜂起が失敗に終わると興利倭船は禁止され姿を消す

16世紀 日本は、朝鮮半島、シナ大陸、南海方面との貿易航海が繁栄、造船も活発になり北九州、堺など目覚しい繁栄日朝関係悪化 貿易衰退

1520 マゼランの艦隊は、南米南端の海峡を抜け大海に出る。

このとき穏やかだった大海に平和の海、太平洋と名づけた。海峡がマゼラン海峡と名づけられたのは周知の通りである。

何よりもそれ以前の西洋の世界地図には、太平洋は、存在しなかった海域なのである。

その後大きな犠牲を払いながらグアムなどの島々を発見し、そしてフィリピンに到達。

5隻の船265名で出航、帰り着いたのがビクトリア号と18名であった。マゼランは、途中戦死。それでも満載された香辛料で、西回り航路の発見への投資は、回収されたという。 →香辛料

1521 アステカ王国滅亡 

イスパニア(スペイン)メキシコアカプルコとフィリピンマニラルート

銀のルート 中南米―フィリピン−明  

1523 ニンポウの乱中国で大内氏と細川氏との戦い 

大内氏が日明貿易を独占

1524 ユカタン半島のマヤ帝国滅亡

1524 ガマ 第三次航海

ポルトガルの進出は、陸路の中東ルートが廃れた ヨーロッパ人の進出

中東とベニスの商人が没落 アラブの水先案内は、自らの首を絞めたか

1532 インカ帝国滅亡 中南米をスペインが領有

その後メキシコを植民地にし、ここから産出される大量の銀とかつてのインカ帝国と周辺からの金を手に入れ国力を増して行く。

さらに、インディオを使い白い黄金といわれた砂糖、コーヒー、ココア、お茶を大プランテーションで栽培生産し、ヨーロッパ人の嗜好さえも変え莫大の利益を得て、世界最強の国になった。

1543 ポルトガル船ニンポウ経由で種子島へ来着 鉄砲伝来

この頃日本は、世界有数の産銀国 当時中国は、銀による納税制度でおまけに解禁政策で銀需要が高まっていた。

この銀の供給は、密貿易に依るところになる。その担い手は、後期倭寇 

内実は、日本人、中国人だったが大航海を可能にしたスペイン人、ポルトガル人も参入した。 

石見銀山−フィリンピン−明

1549 ザビエル来日

1557 大内氏滅亡  日明貿易途絶える 

遣明船 最後の2航海は、銀を積んでいた。

日朝、日明貿易が困難になり、交易は、南海貿易が主流となる

1558 日朝交易 対馬国守宗氏の独占 大友氏豊後府内を開港

1565 スペイン人フィリピンを征服

1565 太平洋東進航路の発見 大圏航路という。

スペインのアンドレス・デ・ウルダネータは、フィリピンのマニラを出発、黒潮に乗って日本近海を北上。北緯40度あたりに吹く偏西風に乗り、東進、メキシコまでの20,000kmを130日で走破。こうして、スペイン、メキシコ、フィリピンを結ぶ往復の航路が完成した。時に中国は、銀の大消費国になっており、往路にメキシコ銀、復路に香辛料それに加えて生糸、絹製品、陶磁器などが運ばれ大いに栄えアカプルコ交易と呼ばれた。

すると、マニラは、日本の石見銀山を含め東西の交易の十字路となって世界有数の交易港となった。

この頃に道の島は、世界的な道の島になっていたのではないかと考えている。

喜界島は、大圏航路の上の寄港地として栄えなかったか、それゆえ大宰府の出先機関のように発展したのではないか、すると琉球交易の危機。

1568 織田信長 入京   南蛮貿易 この頃?には、マニラに日本町 

1571 スペイン、マニラに東洋貿易拠点を置く

メキシコ・パナマ経由、スペインへ イギリスの私掠船(海賊)が狙う

オスマン帝国をレパントの海戦で破り地中海の制海権を握る

1571 琉球の奄美支配 イスパニアに対抗する必要があったか

古琉球御朱印状(辞令書)と近世琉球文書 辞令書は琉球王府からノロなどに発行された。

1578 島津と大友宗麟 耳川の戦い 後に家康は島津の戦法に驚する

島津は関白秀吉の和睦勧告を受けながら九州統一戦を続けた

1580 スペイン王は、母方のポルトガルの王位も継いで

アジア貿易も支配下にする

1581 ネーデルランド(オランダ)スペインから独立宣言
1582 九州少年使節団の渡欧
1586 ポルトガル、明国よりマカオ獲得

1587 島津 豊臣軍に降伏

1588 秀吉、賊船停止令  邦人の南海進出  

スペイン無敵艦隊英・蘭連合軍に大敗

オランダは、ポルトガルの勢力範囲を奪っていく

1589 秀吉、朝鮮に入貢を促す
1590 豊臣秀吉天下統一  

報恩に使われた秀吉のルソン壷 フィリピン産

1591 秀吉、フィリピンに入貢を促す

秀吉は義弘へ琉球の入貢を強制   

秀吉は「琉球は島津へ服属し朝鮮は宗氏へ従属との認識 ために明との戦いに協力すべし」

1592 秀吉の朝鮮出兵

豊臣秀吉は、織田信長に仕えている頃から、主君の野望を語るように、唐国(明)の征討を吹いたという。

この信長の絶頂の頃には、宣教師から世界の情勢は、聞いていたしポルトガル、スペインの植民地の話も聞いていたと考えられる。

実際、信長に贈られたと物とされる、現代の世界地図に近いものが見つかった。

武田信玄、上杉謙信が代替わりしたこの頃、信長の競争心は、もはや国外に向いていたとしても不思議ではない。

そして、秀吉の九州平定、日本統一の頃には、スペインによる唐国侵攻の話を宣教師から聞いたため、同じ野望を持つ秀吉は、スペイン人が連れ去った日本人奴隷の変換要求や宣教師の国外追放などキリスト教弾圧に向かうことになったようである。

世界の植民地の話を聞いていた秀吉が、新たな宗教勢力の台頭を防ぎたかったというのが真実ではないか。

確かにスペインの次のターゲットは、中国と日本だったようである。

スペインの話に乗り、共同作戦で明国へ攻めたなら、既に衰退期の明国は、植民地になっていたと考えられる。

日本においては、まもなく、国内に増えたキリスト教信者が、扇動され一揆をおこすのに乗じ、スペイン艦隊が攻めてきただろう。

つまりこの頃から日本は、西欧の圧力と戦っていたことになる。図らずもながら、中国の植民地化は、秀吉の野望によりだいぶ遅れたといえる。

さらに秀吉は、唐国侵攻に当たっては、逆にフィリピンのスペインの軍隊にも派遣を要請している。

1595 島津領の太閤検地終わる

秀吉は義弘に、兄義久に代わり鹿児島入りを命ず

オランダ人ジャワに到達

1598 秀吉 病没  朝鮮撤兵

多くの有力武将は、消耗しきったが家康は無傷であった

義弘は特に撤退戦における武功を五大老に激賞され参議に任ぜられる

島津家の内紛の調停を家康が行い、そのお礼に上杉軍討伐に向かう家康を見送りに行ったところ伏見城の守備を頼まれるが、家康の過信に入城を断られそのまま関が原の戦いに巻き込まれる。

兵もなくやむなく西軍につく

南海貿易は、1550年代以降はポルトガル商人が加わったことによりアメリカ大陸産の銀が流入し、南海貿易は中国が必要とするアメリカ大陸産の銀、および日本産の金、銀を入手するための大規模な国際貿易活動の一部となった。

明・清の時代の中国の経済的繁栄を支えた要因の1つに、このような大規模な海上貿易が挙げられる。

1599 五大老の家康、明との講和を図る。倭寇取締りを島津に命ず

朝鮮経由 宗氏  福建経由 薩摩

薩摩 調査に徳之島入り

1600 関が原の戦い  

唐津から薩摩へ移送された、朝鮮の役の捕虜、明の将、坊津の商人島原氏が明へ送還

タイの日本人町 関が原の戦い、大阪の役などの後、特に増えた

隣国ビルマのタウングー王朝から軍事的圧力があり、実践経験豊富な日本人を傭兵として雇い入れた

1601 福州からの中国船2隻をトカラ付近で伊丹屋が海賊行為で焼き払う

日明貿易は実現せず

1602 冬 伊達政宗領内に琉球船漂着

家康は乗組員を無事送り届けるよう島津へ厳命

家康は島津の領地を安堵 義弘も許される

負けた西軍で転封も減封もない

1602オランダ東インド会社設立 ジャワ、スマトラ、モルッカ植民地化
この後に、台湾、北米ニューアムステルダム、セイロン島コロンボに拠点を築いていく。
1602 英人アダムス来着 家康、西洋船を造らせる

1603 島津はこれを送還し家康への謝礼使の派遣を要求

宮古船、平戸漂着

1605 琉球船、平戸漂着

宗氏、朝鮮使節/同行し家康に拝謁

島津は、家康に琉球出兵の許可願い

直 川智(焼内間切大和浜生)  琉球渡航の際中国福建省へ流される(1?足らずの船)現地人に助けられサトウキビ栽培を手伝う

1605英人アダムス伊豆で80トン積み120トン積みを造る ルソンとの交通許される
1606 島津家久 改名の御礼の際、改めて許可を願い許される

奄美、琉球侵攻の談合始まる

1609 (慶長14)薩摩の奄美、琉球侵攻

直 川智 琉球行きの交易船に乗って帰国サトウキビの苗を持ち帰る
1609 幕府 西国の大型軍船禁止、没収破壊

島津軍 奄美、琉球侵攻
オランダ長崎平戸を拠点

1609 ガリレオ・ガリレイが望遠鏡を発明。

1610 大島代官を設置

薩摩藩の慶長検地 島の地名に無理に漢字を当てる

島津家久は、琉球王を伴い駿府の家康に面会 長年幕府が琉球に求めていた「聘礼」が実現。家康は、琉球王を丁重に迎えた。王は、駿府で病死 島津はその弟を伴い江戸の秀忠と面会。

幕府は、明との国交回復を琉球に期待していたので国家として存続させた

1611 琉球、奄美を薩摩へ割譲 ?

島津 「掟十五か条」を定める 島津の許可なく日本商人の琉球渡航禁止

琉球は、島津の注文品のみ中国から買付け 琉球王帰国・・・・

1612 琉球王の帰国を伝えた進貢使節に対し明は、定められた時期に来な

かった上、進貢品に日本のものが多かったため背後の日本を警戒し2年に

1回から10年に1回でよいとした。幕府側としては作戦失敗

1613 大島代官を大島奉行に改称 

対外的には、奄美を琉球国の領土とする

1613 イギリス国王から徳川家康に望遠鏡が献上される。

戦略道具として、諸大名は、所持できなかった。将軍吉宗が長崎のレンズ職人に、製作させた。寛政年間には、泉州の岩橋善兵衛が、望遠鏡を製作し天体観測を行う。

コペルニクスが、1530年に提唱した地動説は、1774には長崎のオランダ通詞が、翻訳書に紹介している。

江戸時代一部の人たちは、既に月面、木製、土星をおぼろげにも知っていた。また、近江国友の鉄砲鍛冶の国友氏は、オランダ製の反射式望遠鏡を見たことにより製作を試みた。

その精度を上げるめ、天体観測を繰り返し、太陽黒点の観測は、後々まで評価された。1835年の連続観測においては、西洋に遅れると10年に迫っている。

1615 琉球は、薩摩に明が交渉に応じなったと報告
1616 幕府 欧州船の入港地を平戸、長崎に制限

後金(清)が中国東北部に建国される

1619 徳川家康 「人身売買禁止令」

1623 英国 日本より撤退 アンボイナ島事件 オランダがアンボイナ島からイギリス勢力を排除 傭兵の日本人9名斬首

薩摩藩は、この年まで軍勢を残して琉球を統治

その後、支配策を緩和していく 武力統治は費用がかかるし対中国策でもあると考えられている

「大島置目之条々」発布 ヤンチュ禁止の条項

ノロ制度黙認、外洋船建造禁止

1624 スペイン船の来航禁止

台湾がオランダに占領される

奄美 薩摩藩の蔵入地(直轄地)となる

オランダが香辛料貿易を独占したように見えたが、同量の金と交換された香辛料は、下落していき国力弱まる。
インドに専念したイギリスは、良質の綿製品で貿易を活発化させる。
イランにインドの香辛料、砂糖などを運び金銀を手に入れ、それでインドの綿と交換し(英国の毛織物はインドでは価値がなかった)、ヨーロッパへ紅茶、硝石、藍など共に売り巨万の富を手に入れた。
この頃ヨーロッパは、人口が増え、食糧、衣服が必要になっていく。
ヨーロッパの中心は、地中海沿岸地域から、大西洋貿易で栄えた西海岸地域に移る。

1635 日本船の海外渡航全面禁止
1636 後金が国号を清に改める
1637 島原の乱

朝鮮が清に服属する

1639 ポルトガル船 来航禁止

1641 オランダ人を出島に移す
1644 明の滅亡  清が北京を攻略 政権を握る

琉球は、清と南明へ等距離外交を図る
1661 南明崩壊 

南明政権下の鄭成功 オランダ人を制圧し根拠地を台湾へ移す

1662 琉球 冊封の式典 清琉関係 継続保障

長崎貿易を通じて台湾鄭政権と接触していた江戸幕府は清戦争を避けるため琉球を幕藩制から切り離して対処

琉球にとっては、中国、台湾、徳川幕府、薩摩藩(表面的)との全方位外交を強いられることを意味する

薩摩にとって琉球の交易の利は、薄くなっていくのではないか、そのため奄美の黒糖が重要視されていくのではないか

1670 長崎代官 末次年蔵 長さ15間、幅3.5間、

櫓60挺の西洋型の船を造る。これより北前船の活動盛んになる

1673 水戸光圀 18間の船を造る
1683 反清復明勢力制圧される

1688 徳之島代官系図差出を命ずる 基本的に島の民は、百姓身分
1689年頃、沖縄より移入の説 名瀬市誌 後、喜界島、徳之島へ

明の皇后、広東付近で2,000隻の船と50,000人の人質を使って潜水夫によって真珠を採取

1695 黍検者を大島に派遣

1697 島役人から黍横目 田畑氏

1706 島津 鹿児島全域に系図差出を命ず
1708 記録によるとこの頃は、まだ稲作重視ついで櫨、そして黍である
1709 徳之島 天然痘、大飢饉   他の島は?
1712 田畑佐文仁 住用間切與人となる。

翌13年から38年までの間に494 町7反歩を開墾 開墾の功績により郷士格を与えられ、田畑の姓を名乗る 水車を発案、湯湾岳の山中に設置、製糖を行う

三池炭鉱 1469発見 1721柳川藩が石炭を掘り始めて、主に瀬戸内海地方の製塩用燃料として販売された。明治初期に政府直轄の炭鉱となった。後に三井財閥が払い受け、昭和まで産出した。

1726 日本国内沿岸海運盛んになる 

1年間に江戸に入港する諸国の船は、7000隻反面、遠州灘、熊野灘の海難事故多発 『板子一枚下は地獄』の観念根付く
1727 (享保12) 享保検地 宇検村生勝検地帳 
1728 大島御規模帳

デンマーク人ベーリング、ベーリング海峡発見

1732 享保の大飢饉 伊予一国だけで飢民169000人余

1745 「貢米」を砂糖へ代える 「換糖上納制」実施

1753(宝暦3) 幕府、御手伝普請として薩摩藩に全額負担の「木曽川治水工事」を命ず。

1754〜55 木曽川工事 40万両は、藩の財力を超えた難事業で京阪の商人から利子の付く借り入れをして、成し遂げた。
奄美「龍郷町誌」によるとその際商人たちへの担保は、奄美の黒糖であった。この借金で奄美は、大飢饉となる。

それまで、畑の1/3は、休ませて主食の芋を耕作していたが藩は、これを全てきび作にするよう命じ、外のものは、山を開いて植えればよいとした。山では、育ちが悪く、腐るものもあり大飢饉となる。「宝暦の大飢饉」

以後サトウキビの増産が藩の方針となり「砂糖の双買い入れへと繋がる。

1755 工事完成  工事費40万両 薩摩の年間産物高14万両

江戸藩邸の類焼、開化政策などで大阪商人などへ500万両の借財「カンツメ物語」は、この頃か  

1755 徳之島大飢饉 脱島者続出

1755 ポルトガルリスボン大地震、壊滅的被害で国力が大いに損なわれた。

1756 英、仏インドで植民地争奪戦

1775~1783 アメリカ独立戦争 アメリカ人潜水艇を造る

英国は、この戦いで大英帝国の力を削ぎたい周辺国も敵に回す結果となり大きく国力を落としてしまう。戦争に後から参加した、フランス、スペイン、オランダも遠く離れた地での戦いで消耗した。
英国は、当初軍事力ではるかに優位でありながら戦いに勝利してもその地を守る兵力は大陸の広い戦場で割くわけにはいかなかった。
つまりそれまで植民地を広げてきた中心地を制圧し、現地の王を使い原住民を服従させる戦略も通用しなくなったと考えられる。

ヨーロッパ大陸では、英仏戦争が行われており各国ともどちらか側につき各地で戦争が繰り返された。

1777 大島、喜界島、徳之島三島「第1次砂糖総買い入れ制」強行

1781 (天明元年) 稀なる台風 200余の家倒壊 大飢饉
1789 フランス革命
1796 イギリス、オランダよりセイロン島獲得

1806 (文化3年)瀬戸内町清水の 当済 大東島発見
1808 鉄製の黍圧搾機開発

間宮林蔵 樺太探検

1813 伊能忠敬 沿海実測全図完成
1815 徳之島 疱瘡大流行 罹病者9672 人 死者1891人(16522人中)
1816 徳之島 「母間騒動」
1819 強い台風 冬に向かい連日の寒雨 鼠猪の害 翌年凶作
1827 (文政10)薩摩 奄美の黒糖について三島総買い上げを再実施 

「砂糖抜けに死罪」

琉球貿易の拡大を進める
1829 5〜7月台風5 黍、芋大被害
1830 「天保の改革」 以後、薩摩藩の黒糖政策は厳しさを極めた 

「第2次砂糖総買い入れ制」  

財政改革の責任者に抜擢された調所広郷

  • ○10年で50万両の積み立て
  • ○平時、非常時の手当金をなるべく蓄えること
  • ○借用証文をすべて回収することを命じられる   

    黒糖を改革の根本とする

    男子15〜60歳 女子13〜50歳に土地を割り当て(「高割り」3〜5年で割換え)黒糖の上納量(年貢)も決まった  

    土地の良悪割当不正あり

    一斤たりとも黒糖を自宅に所蔵することを許さず、製造すれば直ちに藩の倉庫へ収めさせた。

    年中厳重な監視の下、全力を挙げてキビの栽培と製糖に励ませた。キビ刈のとき、高く刈れば札をかぶせられ、砂糖を指先でなめるだけで鞭打たれた。さらに、砂糖の製造が粗悪なときは、首かせ、足かせの刑に処し、密売は、死刑に処したという。

    転用できる水田は、黍畑にする  原野開墾を奨励。

    砂糖密売の監視のため貨幣の流通停止

    これらの政策は、一時減少したヤンチュの増大を生む 極端な二極分化 格差

1832 春先の余寒強し 芋植え付け不可、黍成長悪 山野の草木で命長らえる
1833 この前後は、日本で歴史的大飢饉 

奄美で正月から3月まで雨降り続く、黍、芋不作、ソテツ食い尽くす

百姓の苦しみ筆舌に尽くせず 「大島代官記」

1834 災害多し 砂糖凶作 借糖利息2倍になる それでも未納者続出
1835 春先余寒強く、少雨、種芋腐る、黍不作、台風2、飢饉
1836 飢饉続く、黍不作・収穫3〜5割減 潰れ村は、この頃

1837 この年まで大凶作続く ついに「正月礼式の焼酎なし」

ようやく島役人たちは砂糖の上納の延期を請願、認められる

「猿化け騒動」
1839 イギリス香港を占領

1840 アヘン戦争 英は、清国沿岸へ出兵
1844 薩摩藩の改革の目標は達成された
1851  島津斉彬 藩主に就任

1853 ペリー琉球へ来航

沖永良部「砂糖総買入制」 遅れて実施された
1854 琉米修好条約

1855 「ノロ・ユタ」を厳禁 政策の邪魔であり聖域が開墾を妨げたため

民族文化の伝承は精神的柱を失ったといえる
1857 与論島黍植え付け始まる
1858 薩本土 「加世田一揆」

1859,1,15(安政6)西郷 31歳で奄美大島龍郷へ島流し

真実は、犯罪人というより入水事件の始末のためのようである。藩から年六石の扶持米が支給され、翌年には、扶持米は、16石となり、別に25両も支給されている。

1862(文久2)藩命で帰藩 四ヵ月後に、島津久光の怒りに触れ、沖永良部和泊村へ流罪 1862〜64

薩摩藩は、財政難を解消するために特産品を指定し制限を設け他国への持ち出しに課税した。当時藩の専売品は、各藩にとって大きな収益源であり特に薩摩は、特産品を商人任せにせず統制を加え琉球貿易品もあり、その取締りは、厳しく奉行所・関所がおこない外城制度がさらに強固にした。これは同時に他国からの旅人さえ容易に入れない堅固な国境にした。

他国のスパイとおもわれる者は、追い払いあるいは、秘かに殺された。

九州を征服したほど多くの武士を抱えた薩摩が、豊臣秀吉に小さな領土に閉じ込められたため多くの士族の生活は、厳しかった。屯田兵制度と外城制度は、武士の中にも格差を生んだ。

最下層の百姓の身分は、厳しさの極みである。その年貢は、生産高の8割を納めていた。上納後は、一月分の米も残らなかった

1864 徳之島 「犬田布騒動」
1865 (慶応元年)薩摩藩は、白糖製造工場を名瀬方金久村、西方久慈村(瀬戸内町久慈)、龍郷方瀬花留部(龍郷町瀬留)、宇検方須古村に建設
1867 王政復古の大号令 新政府発足

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